第1回■とにもかくにも空っぽのハノイ・ノイバイ空港に到達した■
俺の乗ったエアフランス機は、空っぽのハノイ・ノイバイ空港に着いた。 ずいぶん色々な国の空港に降り立ってきたが、各航空会社がところせましと色とりどりの 機体を自己主張している、あの見慣れた国際空港とは全く様子が違う。俺の乗ってきたエ アフランス機も、新たに客を詰め込むと、そそくさとバンコックへ帰って行った。まるで 、こんな所に一分でも長くいられるか、とでも言いたげに……。
俺はエアフランス機の中で不愉快だった.周りの座席は白人のじいさん、ばあさんでい っぱい。その誰もにワインが配られているのに、俺のテーブルには水ひとつ出ていない。 確かに俺はトイレに行っていた。でも今はこうして席に戻って、スチュワーデスが「ドリ ンクは何にしますか?」と聞きにくるのを待っている。白人のじいさん、ばあさんの中で、 チンチクリンのアジア人の俺が目立たないわけはないだろう。チンチクリンのアジア人だ から無視されているのか。
"You never give me NOTHING!"
中でも人の良さそうなスチュワードを選んで抗議すると、「あなたはいなかったので…」と いう返事だった。なあんだ、 わかっているじゃないか。さっきまでいなかったけれど、今は席に戻っているということ が。フランスでは、席にいないというのは、ドリンクはいらないという意味だとでもいう のか。5年前のパリ以来のレイシズム(人種差別主義)に出くわすはめになった。俺は水 を頼んだ。苦い水だった。
とにもかくにも俺の乗ったエアフランス172便は、15時55分定刻に、ハノイ・ノイバ イ空港に到着した。空港から市内までは、30キロ、エアポートタクシーは20ドルと聞いて いたから、空港受付のカウンターに、10ドルで市内に行くという看板を見つけた時は、 無条件でそれに飛びついた。実はこれがそもそもの悪運の始まりだったのだ。
つづく
第2回 ■ぼたっくられっぱなしのハノイだった■
10ドルタクシーには、運転手の他になぜか助手が乗っている。タクシー会社の名はノイ バイ・トランスポート・コーポレイティヴ。見渡せば他のタクシーの姿はない。ちょっと 解せない気持ちで乗り込んだ。助手は多少英語がしゃべれるので、どこから来たのか、何 人かとか、愛想よく話しかけてきた。俺にとっては初めてのベトナム、気分よく応対して いた。
俺はホアンキム湖のほとりに宿をさがすつもりでいた。ホテルの窓からナイスヴューを 楽しみたかったのだ。その旨を伝えると、ホアンキム湖から2~3分のところにいいホテ ルがあるという。連れて行かれたそのホテルの名はプリンスホテル。その時はじめてわか ったのだが、助手はプリンスホテルの回し者だったのだ。俺を連れていけばコミッション がもらえるに違いない。ホアンキム湖まで歩いて30分はある。エレベーターもない。案内 されたのは3階の部屋。こんな上の階はいやだと言ったら、2階は予約でいっぱいだとい う。それならホアンキム湖のほとりのホテルに行くと言ったら、25ドルを20ドルにまける という。それでも3階はイヤだと言ったら、予約でいっぱいのはずの2階の部屋に通して くれた。薄暗くてとても20ドルの代物ではない。でも、ベランダに出て気持ちが変わった。下の往来に、人々の行き来や、忙しそうな商店の様子が見渡せたのだ。これはシャッター チャンスだと思った。日は暮れかかっているし、このホテルにおちつくことにした。
部屋には、最初しかお湯の出ないシャワーが付いている。Wベッドには薄汚いカバーが かかっている。後で泊まったホーチミン市のホテルは、20ドルも出せばもっときれいだし、 バスタブも付いているし、お湯も好きなだけ使えるし、朝食まで付いていた。
フロントの女はナーバスで、不機嫌だ。俺が5ドルまけさせたのが気に入らないのかと 思った。その分、彼らのコミッションが減るからだ。彼女にフエまでの汽車賃もぼられた。彼女が手配した切符は60ドル。同じコンパートメントに 乗り合わせた二人連れの若いアルゼンティーナは40ドル、フィリピン人の男は35ドルで買った と言っていた。ノーコミッションだというからたのんだのに、なんということだ。
こんなホテルに俺を連れて来てしまった助手の名はコアン、プリンスホテルの3階に住んでいるというが、さだかではない。
あくる朝、俺がフロントに行くとコアンがロビーにいた。お茶でも飲みに行こうと誘わ れたので、彼のバイクの後ろにまたがった。コーヒーショップでは和気あいあいとベトナ ム式のコーヒー(エスプレッソにコンデンスミルクのたっぷりはいった甘いコーヒー)を 飲み、写真を取りまくった。会計の時になって、わりかんにしようと言ったらきょとんと いう顔をした。彼はあきれた様子で、25,000ドン(1.8$)、俺の分まで払った。俺をプリンスホテ ルまで送ると、仕事でエアポートへ行くという。また俺みたいな犠牲者を物色に行くに違 いない。そして、俺の案内を自分の舎弟みたいなやつに引き継いだ。乗りかかった船、いや、渡りにバイクだ。俺は内心シメタ!と思っていた。ところが、どっこい、そうは問屋がおろさなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・。 つづく
第3回 ■ぼたっくられっぱなしのハノイの夜だった■
こうしてぼられ作戦にまんまと引っ掛かっていく。コアンは舎弟みたいな奴に言ったに 違いない。こいつはがめついから心してぼったくれ、俺の分までしっかりぼったくれ。
まず、ホアンキム湖畔のバイクでのドライブ。俺は小躍りして彼のバイクの後ろに乗っ たものだ。そして写真を撮りまくった。行く先々で彼のドリンク代まで払わされた。一通 り観光が終わると、彼は俺をディスコに連れていった。日曜日ともあって、ディスコは若 者から老人でいっぱい、みんなテクノミュージックに合わせて踊っていた。特に目につい たのは、70歳位の老人が体をくねらせて踊る姿だった。さすがはベトナム人、ベトナム戦 争でアメリカに勝っただけのことはある。老人といえどもパワフルだと感心した。
踊り疲れると、今度はカラオケに行こうと言いだした。カラオケなんて好きじゃないけ ど、その時の俺は好奇心のほうがまさっていた。ディスコは2階にあったが、カラオケバ ーは同じビルの1階の奥、薄暗いところにあった。なんだか怪しげなところに案内されて しまったなと思っていると、女が5人やってきて、気に入ったのを誰か選べという。俺は 戸惑ったが、22歳位のいなかっぽいボインの女を選んだ。彼は25歳位の怪しい女を選んだ 。俺たちのビールや女のドリンクを注文すると、女と彼と、交代で歌い出した。俺はカラ オケは大の苦手。ぽかーんとハノイビールを飲みながら聞いていた。
その間、小一時間位のものだったと思う。いざ会計の時になって、なんと40ドルも請求 されたのである。昨夜行ったジャズクラブではビールが1ドル半だった。どう考えても高 すぎる。マネージャー風の男に明細を見せろと抗議すると、彼は頑として聞き入れなかっ た。やくざ風の強面だったし、そこは渋々払うことにした。俺は怒って店を出た。ところ が待てども待てども奴が店から出てこない。どうしたのかと思ってカラオケバーに戻って みると、奴と強面のマネージャーが何やら立ち話をしているではないか。“You are taiking commission?”と言ったら図星だったらしい。びっ くりして俺の方を振り返った。
俺は奴とそこで別れることにした。そしてカラオケバーで同席した女ふたりと、なぜか いっしょにメシを食うはめになった。アメリカ風のレストランに連れていかれ、女ふたり は飲んだり食ったりしながら、奴は悪い奴で私たちには何もくれないと、たどたどしい英 語で訴えかけた。やがてひとりが帰り、もうひとりもいなくなり、会計をしてまた驚いた 。今度は400,000ドン(28ドル)請求された。マネージャーに明細を見せろと言うと、し ばらくしてトータルが165,000ドン(11.4ドル)になった明細書を持ってきた。それでも相当ぼったくられている。抗議すると、あの女ふたりは悪い奴 で、自分は関係ないんだという顔をした。あとでコッミッションを払うことになっていた のだろう。
ディスコ代にカラオケ代、飲食代、全部合わせても60ドル位だから、授業料と思ってあ きらめることにした。ホテルに戻ってウェストバッグを開けてぎょっとした。日本を発つ 前、銀行で10ドル紙幣で50枚両替した札束がやけに薄いではないか。数えてみたら200ド ル位少ない。いつどこでやられたんだろう。ウェストバッグは腰から肌身離さず持ってい た。バイクの後ろに乗っている時にやられたか。ディスコで踊っている時にやられたのか 。全く思い当たらない。ちくしょう!くやしいが証拠がない。犯人を特定することができ ない。
しかし、見事な腕前だ。むしろ感心してしまうくらいだ。高い授業料になってしまった けれど、命まで取られたわけではない。まだ旅は始まったばかりだ。潔くあきらめて、旅 を続けよう。人を簡単に信用するなという、いい戒めなのだ。明日は心をひきしめて、町 を出よう。・・・・
つづく
第4回 ■ハノイジャズクラブ、そしてクワン少年との出会い■
第5回 ■Cafe39■
今日はハノイを発ってフエに向かう日。朝起きて外に出ると、あのクワン少年がいるではないか。彼だったらだまされることはないし、銀行を探すにも彼がいた方が都合がいいと思ったので、おとなひとりしか乗れないシクロにふたりで乗って、いっしょに街の中心部へと繰り出した。しかし油断大敵、ガキとはいえあなどれない、同じ失敗は繰り返すまい……と心の中でつぶやきながら。こうして親子のような友達のような、変なふたりの翔んでもねえTRIPがまた続くことになった。
道端で将棋をさしている人、長い竹筒で水たばこを吸っている人、路上で野菜を売っている人、あけっぴろげのパーマやさん……、MAGIC STONEと看板に書いてあるので、何かと思ったら、石の彫刻屋さんだった。街の情景をかたっぱしから撮りに撮りまくった。シャッターチャンスが Here,there and everywhere…… あちこち歩き回って疲れてきた。クワン少年ものどが乾いたというので、彼をお茶に誘うことにした。通りにはカフェがあふれるほどある。どのカフェも閑散としているのに、白人の観光客が我が物顔で占拠している。軒並みあるカフェの中で「Cafe39」に決めた。なぜかそこだけは外人も観光客もいなくて、ベトナム人の客だけでごったがえしていた。何かに吸い込まれるように、そのカフェに入っていった。
店内は左右に小さなスピーカーがあり、大きな音でビートルズがかかっている。奥には二階につながる階段があって、昔、御茶ノ水にあったジャズ喫茶のようだった。若い客ばかりで、みんな思い思いの雑談にふけり、俺たちのことなど気にもとめるようすはない。外はオープンテラスで満席だったから、奥にすわるしかなかった。 俺はベトナムコーヒーを、クワン少年はコーラを注文し、しばらくは椅子にへばりついていた。だんだん落ち着いてきて、まわりの様子が目に入るようになってきた。ふと見ると、左隣りの席に、人のよさそうな、色白の、どこか日本人ぽい好青年がひとり、壁に貼りつくようにこしかけて、コーヒーを飲んでいた。親近感を感じて話しかけてみた。彼の名はグエン・モン・クワン(なんとクワン少年と同じ名前だ!)といい、郵便局に勤める28歳の独身男性、大学の工学部を卒業していて、給料は月150ドルという。家にはパソコンもあり、バイクも持っている。ベトナムでは中流の上くらいか、エリートに属するといっていいだろう。やぶからぼうにベトナムをどう思うかと聞かれて返事に困った。悪い奴が多くて、ぼられっぱなしで、……なんて話もできないから、ベトナム人は勤勉でみんな働き者だから、将来はもっと経済的に豊かな国になるだろうと答えておいた。俺の言った事が伝わったのかどうか、よくわからなかったが、笑顔でうなずいてくれたので、内心ほっとした。それまでろくな奴と出会っていなかったので、損得勘定なしのたわいもない会話が俺を安堵させた。とても久しぶりに心地良かった。
彼は俺のために水パイプで吸うたばこを注文してくれた。さっき、路上で男たちが吸っていたヤツだ。実は彼は水パイプたばこが苦手だという。にも関わらず、実際に吸って見せて、吸い方を教えてくれた。が、見事にむせかえった。水の入った竹筒の下の横に、きざみたばこを入れる口がついていて、そこに火を点けて筒の上から吸うのである。試してみたが、あまりのきつさに彼と同じようにむせかえって、息苦しかった。彼と俺は、お互いに顔を見せ合わせて笑った。よく笑った。久しぶりに笑ったような気がした。実に楽しいひとときを彼は与えてくれたのだった。その上コーヒーまでごちそうしてくれると言い出したので、さすがの俺も恐縮して自分で払うからと固辞したのだが、クワン少年の分まで払ってくれた。たかられっぱなしだったから、初めてベトナム人におごってもらって、感激だった。お互い住所交換し、写真を撮り、固く握手をして別れた。とてもいい気分だ。 どこにだっていいやつも悪いやつもいるんだと思った。たまたま運が悪かったから、ぼられるはめになったのだ。これからの旅はきっといいことが待っているに違いない。そんな予感がしてきた。
つづく
第6回 ■フエまでの切符がないっ(クワン少年との別れ)■
今夜9時にフエに向かって出発することになっているのに、俺の手元にはまだ切符がない。あのプリンスホテルのフロント係のナーバスな女は、8時に切符を渡すと言っていた。代金は昨日払ってある。パスポートだって預けたままだ。本当に切符の手配はしてくれたのだろうか。そんなもの頼まれた覚えはないと言ったらどうしようか。急に不安になって、クワン少年に尋ねた。
「もし、フロントの女が切符を渡してくれなかったら、君がポリスマンを呼んできてくれないか?」と言ったら、驚いたことに「まだ16歳なので自分が放浪罪で捕まってしまう」という答えが返ってきた。どうやら生活のために危ない橋をわたっているらしい。日本の16歳とは大違いだ。最近日本で増えている"ひきこもり"は、第3世界では考えられないことだ。食べさせてもらい、住まわせてもらい、着せてもらっているからこそ、ひきこもれるのであって、第3世界でひきこもってしまったら、餓死することを意味する。クワン少年もひきこもってなんかいられない、生活のために働かざるを得ない、そして時には危ない橋をわたらなければならない、第3世界の少年だったのだ。
ポリスを呼ぶことはあきらめた。とりあえず、8時までどこかで時間をつぶすことにした。クワン少年と定食屋に入った。そこはベトナム人で満員だった。通された席が、あごひげをはやし、ハンチング帽をかぶった初老の酔っ払いのそばで、俺は少しビビった。赤いプラスチックのコップで何やらうまそうに飲んでいる。俺にも飲んでみろと勧めるので、ためしに飲んでみた。どぶろくのように白く濁った酒で、とても強かった。9時に汽車に乗らなければならないので、俺は味見程度でやめておくことにした。そのおやじに1杯おごろうと思って注文したら、店の人が、それ以上飲ますなと言っているようだった。仕方がないから自分が飲むようなふりをして1杯注文した。おやじにコップを手渡すと、うれしそうな顔をした。
ポリスマンも入れ替わり立ち代り飯を食いにやって来る。ポリスには一品か二品、サービスでおかずを多く出しているようだった。ポリスマンが入ってくるたび、少年は緊張した面持ちで彼らを盗み見ていた。
大皿に盛った料理がカウンターの上にずらっと並んでいる。その中から気に入った料理を5~6品ほど頼んだ。クワン少年は朝から何も食べていなかったのか、俺と酔っ払いのおやじとのやりとりなど全く眼中になく、もくもくとむさぼっていた。あっという間に皿が空になった。彼は遠慮がちに俺の分もちょっとだけ残しておいてくれたのだが、俺はハノイビールをまだ飲んでいたかったので、その分も彼に勧めた。
日本の厚揚げによく似た煮物がうまかった。まるで、おふくろの味だ。日本を発ってまだ1週間というのに、俺をホームシックにおちいらせるのに十分だった。それほど、うまかった。
俺はビールを2杯飲み、クワン少年は飯をおかわりし、料理もふたりで結局10皿くらいたらふく食い、酔っ払いのおやじにも1杯おごり、会計はたったの20000ドン(1.4ドル)だった。これがハノイの正当な普通なのだ。ぼられっぱなしの俺には驚きだった。
いよいよクワン少年ともお別れだ。最後にカフェに行って、お互いの住所交換をした。そして、俺との出会いについて何か書いてくれと頼んだ。彼は最初はとまどった様子だったが、やがて何か書き始めた。あのジャズクラブの時と同じまなざしで書いていた。真剣な、それでいて無邪気できれいな目だった。
一日つき合ってくれたお礼を彼にしたいと思った。金を渡すのは俺の本望ではなかったが、彼に対する思いを表すのにほかに手段が見つからず、50000ドン渡すことにした。これは彼の3日分の稼ぎ以上であろう。多く渡しすぎて、味をしめ、日本人がターゲットにされるようになっても困るし、こんなところが適当じゃないかと思った。彼はとてもうれしそうな顔をして、受け取ってくれた。そのすぐ後で、「絵はがきを買ってくれ」と来た。日本人の感覚では、金を渡しているのにその上なんで絵はがきを買わなきゃならないのだということになるのだが、15000ドンというから買ってもいいかという気になった。後でわかったのだが、フエで買った絵はがきは彼の絵はがきの半額くらいだった。
そろそろ8時近くだ。プリンスホテルに乗車券とパスポートと荷物を取りに帰らなければならない。クワン少年とホテルに戻ると、ホテルの前の道で俺を空港から連れてきたコアンとその舎弟がすわって、何やら話し込んでいる。俺が何食わぬ顔であいさつすると、コアンが近づいてきて、俺に耳打ちした。「あの少年は悪いやつだから気をつけろ」!!?
フロントの女から、無事に切符とパスポートを受け取った。フロントの横のテーブルでは、初老のオランダ人のグループが、ハイネケンビールを10本くらい並べて宴会をやっていた。俺は「このホテルのやつらは悪いやつらばかりだから気をつけろ」と言ってやりたかったが、あまりに楽しそうに大声でしゃべっているので、躊躇してしまった。コアンたちは、またカモがやって来たと手ぐすね引いて待っているに違いない。以前オランダに行って世話になったことがあるので、多少の忠告はしたつもりだったが、彼らに通じたかどうか……
コアンの舎弟が駅まで送っていこうと申し出てきたが、俺はクワン少年と行くからと丁寧に辞退した。内心は、お前のバイクなんかに二度と乗るものかと思っていた。フロント係のナーバスな女にタクシーを呼んでもらい、クワン少年と共にハノイプリンスホテルを後にした。なんだか少し勝ち誇ったような気がしてきた。
さあ、明日はベトナム戦争激戦地のフエだ。今までの嫌なことはハノイプリンスホテルに置いて行こう。
ハノイ駅に着くと汽車はすでに来ており、大急ぎで飛び乗った。クワン少年と兄弟のように抱き合って、別れを惜しんだ。なんだか胸がじーんと熱くなって、涙腺がゆるんだ。彼の目を見ると、こちらの思いとは関係なく、あっけらかーんとしていた。
さらばハノイ、ありがとう、ハノイの人たち、クワン少年、ジャズクラブのミンさん、まんじゅう売りのおばさん、郵便局のクワンさん……
つづく
第7回 ■フエまでの車中にて(ハノイ~サイゴン統一鉄道)■
後ろ髪を引かれるようにして乗り込んだ汽車の中には小柄な男が座っていて、俺に話しかけてきた。乗客だとばかり思っていたら、フエではどこに泊るのかと尋ねられたので、まだ決めていないと言うと、おもむろにパンフレットみたいなものを取り出して、このホテルはどうだと写真を見せてきた……。No obligationという。フエ駅からホテルまで車で送るという。もし気に入らなければトランスポート代はいらないという……。のど元過ぎて熱さを忘れたわけではないが、またもや、この男が勧めるホテルへ行くはめになってしまったのだ……。
それはさておき、初めてのベトナムの寝台特急に俺はワクワクしていた。同じコンパートメントには二人のアルジェンティーナ(スリムで魅惑的なかわい娘ちゃんと太めのボインちゃん)と中年のフィリピン人がいた。
フィリピン人はトラベルエージェントをやっているビジネスマンだそうだ。ベトナム人のトラベルエージェントに招待されて、フエのホテルの下見に行くところだという。ストレンジな旅行者には見えるが、ビジネスマンにはとても見えない。
二人のアルジェンティーナはフエには行くつもりはないと言っていた。せっかくベトナムの観光をしているのに、世界遺産に指定されている古都フエに行かないなんてもったいない、と言ってやりたかったが、フィリピン人の方がさかんにフエのゲストハウスの勧誘をしているので、俺が口をはさむ余地はなかった。 こいつはゲストハウスの回し者か、それとも人買いか……どうもこのフィリピン人は怪しい。俺は思わず、カメラとウェストバッグは肌身離さず、バックパックは座席の下にしまった。
俺が今いるコンパートメントは一番高いスーパーベッドで、食事も付いている、ということだったが、小さな水のボトルと、菓子みたいなものが二つと、紙のおしぼりが、ビニール袋に入って付いているだけだった。それでも俺はそのうち食事が運ばれてくるものと思って楽しみに待っていた。待てど暮らせど何も出てこなかった。俺は下段のベッドで、上のベッドにはフィリピン人がいる。汽車には一応エアコンディショナーが付き、寝台はソフトスリーパーで、窓際には流しと蛇口も付いているが、2時間位走ったらエアコンディショナーが止まってしまった。コンパートメントを閉め切っているから、暑くて寝ていられない。今までガーっと寝ていたフィリピン人が、上の扇風機を点けたり消したりするから、これがまたうるさくて寝ていられない。腹がすいてきたので、食堂車でもないかと7,8両後ろの車両に行ってみたが、何もなかった。やはり食堂車を探しに行っていた太っちょのアルジェンティーナが、ぶつぶつ言いながら戻ってきた。お蔭で、一晩中眠れなかった。スリムでかわいいアルジェンティーナの寝顔を見ながら安らかな眠りに着こうという俺のもくろみは、もろくもくずれ去ったのだった。
車窓から見える夜空は素晴らしかった。今にも落ちてきそうな星空だった。まさにダイヤモンドダストだ。にぎやかなほどの、星、星、星…… 俺はすっかり星のとりこになって、見とれていた。星といえば、サイゴンへ行く途中の車中からは、昔アフリカで見た、あの南十字星を見た。南半球でしか見えないはずの南十字星が、なぜ北半球で見えたのか?夢かまぼろしか……
だんだん空が白み始めて、朝焼けもまた素晴らしかった。椰子の林、田畑、のどかで平和な田園風景は、タイの車窓から見た風景とあまり変わらない。まだ薄暗いうちから田畑で働く人々、自転車に乗っている人々、朝ごはんの支度をしている人々、のどかな農村の風景は、インドシナ共通なのだと思った。 日本も昔はインドシナのように、穏やかでやさしい田舎の田園風景があったことを、懐かしく思い出していた。そして、それが遠い過去のことになってしまったことをさびしく思った。
こうしてベトナムの風景を眺めていると、かつてここで戦禍があったことなど、信じられない気持ちになってくる。何もなかったような平和な風景が広がっている。結局、戦争や政治の暴力で人民とその暮らしを変えることはできないのだ。もちろん、人民の犠牲は大きい。計り知れない尊い命が奪われ、今もなお、枯葉剤の後遺症に苦しむ人々がいる。そのことを知っているアメリカ人はいったいどれくらいいるだろうか。
あれこれ考えながら、まんじりともせず、汽車は無事、午後3時30分にフエ駅に着いた。二人のアルジェンティーナは、結局フエで降り、フィリピン人の勧めるゲストハウスへ行ったらしい。俺には関係ないとはいえ、少し気になる。何事もなければいいのだが……。
駅にはハノイの客引きから連絡を受けた、ちょっと二枚目の案内人がマイクロバスで迎えに来ていた。ハノイプリンスホテルの教訓があるから、俺は半信半疑でバスに乗った。ホテルに着いて、部屋を色々見せられた。どの部屋もハノイプリンスホテルよりはましで、部屋代も15ドルにまけてもらった。きれいでバスタブも付いているし、ナイスヴューでフエの町全体がみわたせる。ホテルの前には日本人専門のゲストハウス"ビンジュオンホテル"がある。しかし、お迎えの案内人のおにいさんは穏やかでいい人だったが、フロントの女はなぜかまた、ナーバスだった。
日も暮れかかっていた。大急ぎで風呂にはいり、世界遺産の院朝王宮に行くことにした。
つづく
第8回 ■フエ院朝王宮は原っぱだった■
フエ院朝王宮まではシクロでのんびり行こうと思っていたが、日も暮れかかって来たのでバイクで行くことにした。5ドルも入場料を払って中へ入ってみたものの、3階建ての立派な門があるだけで何もない。ベトナム戦争で爆撃されて、ほとんど何も残っていないのだ。塀で囲まれた10ヘクタールもの原っぱが延々と続いているだけだ。ほとんどの観光客はツアーグループで、それも年寄りばかり、若い人は見かけなかった。ひとりでぷらぷらしているのは俺だけだった。
門の中に入ると、角刈りの学生風の男が流暢な日本語で話しかけてきた。歳の頃は25~6歳といったところで、白いワイシャツに黒いズボン、気持ちのこもっていないようなクールな喋り方、さしずめ日本で言えば固い銀行マンといった感じか。自称フエ大学の学生。やおら王宮のガイドをマニュアルを棒読みするように始めたかと思うと、一通り喋り終わったのか、「はーい、じゃこれで」とさっさとどこかへ行ってしまった。何だったんだ、今のは…… 若い女の子だったら、あるいは俺がもっと金持ち風に見えたら、きっと付きっきりでガイドするんだろう。二階へ上がってみたら、また彼が現れた。壁画の説明を一通り説明すると、また「はーい、じゃこれで」とどこかへ消えてしまった。
ぼったくろうと思って近づいたけれど、俺じゃカモにならないと悟ったのか…… ハノイで十分鍛えられた俺にはスキがない! ほっと胸をなでおろした一方、俺には魅力がないのかなと、少し寂しいような変な気持ちになった。
それにしても、あまりにも見るところがない。小さな教室みたいなギャラリーがあったので、入ってみた。現代ベトナム画家達の作品で、300ドル位から売っているという。俺には絵を買う余裕などないので、許可を得て、それらをカメラに収めた。暗い色使いのアヴァンギャルドな作品が多い。
3階は狭くて、大きな太鼓が置いてあるだけだった。しかし、そこからはフエの街が一望でき、眺めは最高だった。
しばらく歩いていると、また絵はがき売りがいた。ただし今度はちょっと暗そうな若い女だ。1袋1ドルで買わないかと言ってきた。7枚くらい入っている。まだ躊躇していると、2袋1ドルではどうかというので、何もない王宮だし、記念に買うことにした。 歩けども歩けども、原っぱばかり、壊れかかった塀のそばで子供がサッカーボールで遊んでいた。やっとコーラを売っている屋台を見つけた。若い女がふたりで店番をしている。コーラを買って話しかけてみると、ふたりは姉妹で、姉は大学生、妹は高校生だという。王宮の中で出会った初めての明るいベトナム人だった。お互いにとりとめのない話をして、別れ際、写真を撮らせてもらった。一生懸命働きながら学校に通っている、すがすがしい姉妹だった。彼女達にエールをおくって別れた。
途中、フランス人グループを連れてフランス語でガイドしているベトナム人がいた。流暢なフランス語を喋り、年配のフランス人一行は、時々うなずきながら聞き入っていた。俺もその昔、フランス語を勉強したことがあるが、結局喋れるようにはならなかった。ほっそりとした、そのベトナム人は知性的で、しかも、とてもたくましく見えた。
日が暮れて薄暗くなってきたので、王宮の外に出た。シクロの客引きが寄ってきた。王宮の中では欲求不満気味だったので、シクロのおやじ達と写真を撮ったり、おやじをシクロに乗せて俺が運転してみたり、しばらく遊んでいた。そして一番気のよさそうな、俺より喧嘩の弱そうな男を選んで、どこかビールの飲めそうなところへ連れていってもらうことにした。
フエの街いたるところショーウィンドーに花嫁衣裳が飾ってある。どこも3坪くらいの小さな洋裁店だ。貧しいベトナム娘にとって、花嫁衣裳を着ることが一種のステイタスシンボルであり、夢なのだろう。
あるところでは、白装束に白鉢巻のいでたちの人々を見た。新興宗教の集会で教祖がアジ演説でもやっているのかと思ったら、葬式だとわかった。
どの店も田畑の真中にぽつんぽつんとあって、1件1件が離れている。ある店でビールを注文したら、いきなり4本もテーブルに並べられた。しかも冷えていない。氷を入れて飲むのである。おしぼりが2本、皿の上に乗ったタバコが4本。どちらも手をつけたら金を取られる。ビールは2本返すことにした。冷えたビールを求めてあちこち探してみたが、どの店も同じだった。そもそも冷蔵庫がないのである。
やっとレストラン風の飲み屋にたどり着いた。ベトナム人でけっこうはやっている店だ。夫婦ふたりで店を切り盛りしている。美人の奥さんは料理担当、愛想のよいおやじはもっぱら接客係だ。自家製の赤ワインを飲んでみろという。まあまあの味だった。シクロのおやじが「俺のおごりだ」と言ってデキャンターワインを注文してくれた。でも、最後に金を払ったのは俺だった。料理は中華風ベトナム料理でまあまあうまかった。ビールも冷えていた。店はちょっと薄暗いのだが、おやじの感じがよいのでいい気分になれた。
シクロドライバーの名前はレーバン・ホーン。ドライバーになったのは4年前、それまでは工場で働いていたという。35歳で、子供が2人いる。工場をやめた時、女房には逃げられてしまったそうだ。日焼けのせいか、苦労したせいか、かなり老けて見える。俺より年上かと思ったくらいだ。
明日はバイクを借りてくるから、それに乗せて色々案内してあげようという。明日はニャチャンへ発つ予定だから必要ないと断ったのだが、なかなかきかない。ホテルの前にはほかのバイクタクシーがいるから、ホテルまでは行かれないが、朝9時に通りの出口で待っていると言い張った。今日のシクロドライバーが、明日はバイクタクシードライバーになるなんて聞いたことがない。あまり熱心なので、じゃあ、午前中だけ、という条件でしぶしぶ受けることにした。
勘定を済ませると、ベトナムコーヒーをごちそうしようと、レーバン・ホーンに誘われた。途中、沢田教一の写真で有名な橋を渡った。ベトナム戦争で爆破されて、今は新しく作り変えられた橋、とても感激だった。かなり人里離れたところまで来てしまったので、大丈夫かとホーンに訊くと、もうすぐだという。やっとのことで、人家の庭みたいなところにあるカフェに着いた。オープンテラスになっていて、真っ暗なところに14インチのテレビがあって、MTVベトナム版の流行歌をやっていた。アルコールランプで淹れる本格的なデミタスコーヒーで、コンデンスミルクをたっぷり入れて飲む、濃くて甘いコーヒーである。
ホーンは酔いにまかせてしゃべりっぱなしだ。俺はうんうんといちいちうなずいていた。ハノイにもいたことがあるそうで、よく犬料理を食べたという。フエにも犬を食べさせるところがあるが、行ってみないかと誘われたが、もう腹がいっぱいで食えないと断った。
今度は女はどうかと言って来た。また30分くらいかかって別の民家に連れて行かれた。しばらく待たせられたあげく、顔を白く塗りたくった、おばさん風の女がやってきた。俺のまたぐらをつかんでビールを飲もうという。ハイネケンが3本、運ばれてきた。家は薄暗く、幽霊でも出そうな気配だ。薄気味悪くなって、逃げるようにそこを出た。ホーンは他にもっといい女がいるといって、また俺をどこかに連れて行こうとした。夜のフエ見学は一通り終わったし、明日の朝早いからホテルに帰りたいと、かなり強い口調で言った。それじゃあ、朝9時にバイクで迎えに行くからと約束を繰り返し、ようやく解放されることになった。彼はそれほど悪いやつには思えなかった。
やっとの思いで俺の泊るタイビンホテルに戻ってきた。タイビンホテルの前にある日本人専門のホテルビンジュオンが、やけに騒がしい。気になって行ってみると、若者が酒宴を催していた。吸い込まれるように中にはいって、俺も酔いにまかせて酒宴の輪に加わった。若者の中には東大生や京大生もいる。女子学生もいる。長年旅を続けているというおやじが、ベトナムの焼酎を勧めてきた。飲むと舌が焼けた。明日はフエを出なくてはならないので、なめる程度にしておいた。ここフエは、ラオスの国境ラオパオにも近く、ラオスやベトナムの北や南からやって来た旅人が集まっている。俺も去年旅したラオスの話をしたり、ベトナムの情報交換をしたり、話に花を咲かせた。
ホテルビンジュオンはオール日本人客で満室、オーナーのホワンは25歳くらいのプレイボーイ風。一見かわいい女子大生は、ホワンに連れられて、犬料理を食べてきたそうだ。それを聞いてその女が急に醜く見えてきた。ホテルビンジュオンの名刺には、"KIMIKO'S HOUSE"と書いてある。KIMIKOというのはホワンの彼女だったらしいが、今は日本に逃げ帰ってしまったということだ。ホワンは日本とベトナムを行き来し、日本語もけっこう喋れる。それにしても、どうしてこうも日本人は群がりたがるのか。ここだけベトナムではないような妙な気分だった。そういう俺もいっしょに群がって、旅の一時を楽しんだのだが……
不思議なことに、ここの学生諸君はほとんどが王宮に行っていないという。しかし、俺も行ってみてがっかりしたわけだから、5ドルも払ってまで行くほどのこともなかろう。
時刻が12時をまわった。ホワンのお母さんがやって来て、もうお開きにしましょうと言っているようだった。俺も明日は旅立つので、自分のホテルに帰ることにした。俺の泊るタイビンホテルは打って変わってガラガラ、エレベーターが一応あるが、動いているのを見ることはなかった。単なる飾りなんだろうか。
次の朝9時過ぎ、ホテルの路地を抜けて大きな通りへ出ると、ホーンがバイクドライバーに変身して待っていた。俺もあきらめて彼のバイクにまたがり、朝飯を食べに行くことにした。
郵便局の前にある、フエ名物ブンボーフエという米粉ラーメンの店に入った。店内はかなり広い。JALの仕事で来ている日本人カメラマンに会った。色々話をしているうち、彼はジャズファンで、h.s.artでもおなじみの中村誠一(TS)にサックスを習っていたこともあるということがわかった。俺がフエを発ったあと、彼を俺の代わりに案内すればどうかとホーンに言ったのだが、彼にはレンタルバイクがあって、さっさと行ってしまった。ブンボーフエは、日本のラーメンになれているせいか、さほどおいしいものではなかった。スープにもなじめなかった。
さて、いよいよ出発の時間がせまってきた。午後の汽車でニャチャンへ行くつもりなのだが、きのうはチケットを取ることができなかった。直接フエ駅へ行ってキャンセル待ちをするか、いきなり汽車に飛び乗ってから交渉するか、どちらかにしようと思っていた。ホーンにホテルまで送ってもらい、お礼として1ドル渡すと、もう1ドルくれという。朝飯をおごって、店とホテルの往復だけなのに、と思ったが、借り物のバイクであちこち俺を案内して一稼ぎしようとホーンも目論んでいたのだから、もう1ドル気持ちよく払ってあげることにした。
大急ぎで荷物をまとめ、ビンジュオンホテルへ行った。このホテルには駅で働く人にコネのあるスタッフがいるのだ。彼のバイクにまたがって、フエ駅へ向かった。大急ぎでチケットオフィスへ行ったが、やはり駅員はチケットはないという。ビンジュオンホテルのスタッフがかけあってくれているが、どうしてもだめだった。駅長にも頼んでみてくれたが、だめだった。
こうなったら汽車に飛び乗るしかない。改札口を通るには入場券を買わなければならない。彼の分まで買って中に入った。すると、女の駅員が来て、ここで何をやっているのかと言わんばかりに文句を言って来た。とっさに今度の汽車でやって来る友達を待っているのだと言い訳をしたが、通じたかどうか……。女の駅員が行ってしまうと、さっきの駅長がやって来て、また注意された。何もかも筒抜けになっているみたいで、ビンジュオンのスタッフもヤバイから出ようという。彼の立場まで悪くしてしまいそうなので、あきらめざるを得なかった。ああ、これでハノイ~サイゴン統一鉄道でベトナム縦断の夢はもろくも崩れ去ってしまうのか………